ますます寒さが増しているようでございます。
巷では、この季節に爆発的に流行するインフルエンザに注意を払うようにマスクを着用される方が多いように見受けられます。
引き続き、体調には用心しなければならないようでございます。
さて、今回もレンタルiPadを活用して頂き、ビジネス以外にも私用でご利用頂けたら・・・と思い、電子書籍などにも親しみを感じて頂けるように、去年に引き続き、拙文ではございますが、国営放送でも始まった時代劇でも舞台となる戦国時代について、記述してまいります。
戦国時代に終止符を打った革命児・織田 信長にスポットを当ててまいります。
戦国時代を終焉に導いた織田 信長ですが、この時期はまだ天下人への足掛かりを得たに過ぎない頃でした。
そんな信長が警戒せねばならない人物に武田 信玄と上杉 謙信がいました。
この両名、どちらも日本の中心地とされていた京都を目指していましたが、彼らの領国を思い返してみてください。
信玄は甲斐国で現在の山梨県、謙信は越後国で現在の新潟県です。現代のように自動車も飛行機も電車もない時代です。移動手段といえば、馬か船です。
その馬も競馬場で見かけるようなサラブレッドではなく、一段と体格の小さな馬でした。
ポニーを少し大きくしたような体躯だったようで、これは約300年後の明治時代に西洋馬と日本馬の品種改良が行われるまで続いていました。
もう一つの移動手段である船ですが、こちらは大航海時代を迎えたスペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国のような造船技術のない日本では木造でした。
先進国のように現在地を指し示す羅針盤もなく、船が沖に流されないように陸地から離れず適度な距離を保って、航行しなければならなかったのです。
このため、風浪の強い日などは、「風待ち」といって入り江のある港などに船を停泊させて、風が止むのを待たなければなりませんでした。
このように移動手段が限られた時代で頼りになるのが”街道”でした。
もちろん、アスファルトで舗装された道など存在せず、人が一人通るのがやっとという道もありました。そのような中で、街道というものは軍隊の行軍には適していたのです。
東海道、中山道、山陽道、山陰道など現代でも名の残っている街道もあります。
中でも、歴史に幾度となく出現するのが、”東海道”でした。
東海道は鎌倉時代から明治時代に至るまで、歴史に重要な役割を果たしてきました。
鎌倉時代の前は京都に政権があり、平 清盛<たいらの きよもり>(1118年~1181年)が栄華を極め、清盛を中心とした平家の一族によって、政権は維持されていました。
しかし、清盛の競争相手であった源氏の嫡男である源 頼朝は、一命だけは奪われず、伊豆に流されていましたが、やがて平家に対して、反乱を起こします。
伊豆から東海道を東上して、京都を手中に収め、将軍となり、政権を獲得し、東海道を再度、下って鎌倉に幕府を開いたのです。
ここで政権は京都から鎌倉に移りました。
その後、政権は足利 尊氏の手によって、鎌倉から京都に移りました。
そして、徳川 家康が江戸で幕府を開いたがために、政権は再び関東に移りました。
やがて、200年以上経過した1867年に徳川幕府 十五代将軍・徳川 慶喜<とくがわ よしのぶ>(1837年~1913年)によって、大政奉還(政権を朝廷に返すこと)が成され、再び、政権が移りました。
江戸から京都の帝<みかど>に政権が返還されました。
大政奉還後、依然として将軍家の領地を保有する慶喜を征討するべく、南洲翁<なんしゅうおう>と後世まで畏敬の念を込めて、そう呼ばれる薩摩藩の西郷 隆盛<さいごう たかもり>(1828年~1877年)ら錦旗の御旗を擁した官軍が東海道を経て、江戸へ進軍したのです。
その西郷と会談し、徳川将軍家の居城である江戸城を文字通り、無血開城に導いたのが、海舟の名で知られる幕臣・勝 安芳<かつ やすよし>(1823年~1899年)でした。
そして、様々な事情により、京都から江戸へ遷都が成され、現在の東京となるのです。
このように時の政権というものが、東海道を通じて、行ったり来たりを繰り返しているのです。時代の変換期に街道が登場するというほどに重要な役割を果たしているのです。
京都を治める者こそが天下人に近づくという状況で、信長は東海道上にある愛知と岐阜を手中にしています。
有利なことでしたが、その分だけ、周辺の大名たちに警戒しなければならなかったのです。
そんな信長にとって、“天下”という気の遠くなるようなものを身近に感じさせる出来事が起こります。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。