クリスマスが近づいてきています。
ケーキの予約も引っ切り無しということも耳にしております。
今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。
端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。
拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。
今回も戦国時代という怒涛の時代を駆け抜けた三人の人物にスポットを当てていきます。まずは織田 信長について、前回より引き続き、記述していきたいと思います。
桶狭間にて歴史的な勝利を収めた信長でしたが、彼の次なる標的は美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏の攻略でした。
そこへ、名乗りを上げたのが織田家で着実に出世を重ね、草履取りの身分から士分(侍の身分)にまでのし上がった木下 藤吉郎です。
彼は古くからの知り合いである川並衆(かわなみしゅう)と呼ばれる傭兵集団の長である蜂須賀 正勝<はちすか まさかつ>(1526年~1586年)の協力を仰ぎ、斎藤家の本拠である稲葉山城を攻めるのに最適な墨俣(すのまた)という土地に前哨基地を作ることを命ぜられます。
また、斎藤家の要である”美濃三人衆”と呼ばれる重臣たちも味方に付け、一気に織田家を優勢にします。
墨俣に築かれた城というよりは砦は、川の中州に位置し、川の上流からあらかじめ成形された材木を流し、中州で受け取り、一夜の内に築かれました。現在のプレハブ方式ですが、これを「墨俣の一夜城」と後世には伝えられています。
この前哨基地の完成と斎藤家の重臣であり、斎藤家の柱石を担う”美濃三人衆”の安藤 守就<あんどう もりなり>(1503年~1582年)・稲葉 一鉄<いなば いってつ>(1515年~1588年)・氏家 卜全<うじいえ ぼくぜん>(1512年~1571年)が当主である義龍の病死後、跡を継いだ息子の斎藤 龍興<さいとう たつおき>(1548年~1573年)から離反し、織田家に味方したため、難攻不落の城として知られた斎藤家の居城・稲葉山城は陥落し、美濃国は織田家の手中に収まりました。
因みに三人衆の一人である稲葉 一鉄という人物は一説によると、「頑固一徹」という四字熟語の語源といわれています。
これが1567年の出来事ですので、信長が33歳の頃で桶狭間の合戦から7年後のことになります。
信長は尾張・美濃という二つの大国を手に入れ、稲葉山城跡に居を移しました。この跡地に新たに城を建築し、“岐阜”という地名に変えました。
岐阜というのは古代中国の人物である周の文王が岐山より起こり、天下を定むという故事の岐という字と孔子の生誕地とされる曲阜の阜を合わせて、平和と学問の両面を兼ね備えた街にしていこうという意味合いからつけたという説と中国で縁起のいい地名とされる岐山・岐陽・岐阜という三種類の候補の中から選ばれたという説があり、どちらも有力視されていますが、中国から命名の着想を得ているということが共通しています。
このように、稲葉山城やその城下町である井ノ口という名が、現在の”岐阜城”と”岐阜”の町名に変わったのです。
美濃を手に入れた信長は一挙に戦国大名たちの天下取りレースに参戦できる立ち位置につきました。
では、何故に美濃を手に入れた信長が飛躍したのかについては、当時の地理情勢が深く根付いています。その頃の日本の中心地は京都でした。
しかし、中心地である京都は先述の”応仁の乱”という壮絶な家督争いの戦場とされ、荒廃してしまいました。
もちろん、その家督争いの結果、日本の統治者である足利将軍の力も衰退し、戦国時代となり、誰が中心地である京都を治められるかということに主眼が向くようになります。
つまり、誰が京都に最も近く、京都を治められるような強大な軍事力を持てるかということに、天下取りの決め手が隠されていたのです。
では、その条件を満たした人物は誰かということになると、信長以外にいなかったという結論に辿りつくのです。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。