今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。
端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。
拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。
前回に引き続き、戦国時代を代表する三人の人物にスポットを当てていきたいと思います。
奇矯な振る舞いの目立つ信長にも婚約者ができました。
尾張の隣国である美濃国(現在の岐阜県)の国主・斎藤道三の娘・帰蝶<きちょう>(1535年~?)が信長の婚約者でした。
この帰蝶という姫は”濃姫”<のうひめ>という名で広く知られています。美濃国から来た姫なので、濃姫ということでしょう。
信秀と道三はどちらも下克上という時代が生んだ大物であり、幾度か合戦を交えています。
引き分けになった戦いも多く、勝負は持ち越しといった状態が続いていたのですが、信秀は国内の発展に専念し、駿河国(現在の静岡県中部)と遠江国(現在の静岡県西部)の二ヶ国を治め、尾張の東の隣国である三河国(現在の愛知県東部)を治める松平氏をその傘下に収めて、尾張を狙う今川氏に対抗するためには、道三との同盟が必要だったのです。
斎藤道三という人物は「美濃の蝮<まむし>」というあだ名を持つほどに苛烈な人物だったようです。
元来、信じられてきた説として、元々、道三は京都の寺の坊主で、そこを飛び出し、山崎屋という油問屋に婿入りし、その資金力を背景に、東海道と中山道がちょうど交わる美濃国が狙い目だと判断し、その国を守護する土岐氏の家来となり、やがては主である土岐氏を追放し、美濃国を奪い取った人物とされていました。
しかし、近年では道三の父が、着々と下克上を重ね、土岐氏の重臣となり、道三の代で美濃国を制覇したという説が、通説となっているようです。
ですが、国を奪い取ったことは事実のようで、そういった統率力があったればこそ、家来たちが道三に味方したといえます。
その後、道三と信長が対面することになるのですが、彼が15歳であったとも、19歳であったともいわれています。
どちらにせよ、まだ10代の信長と50代後半の道三という子供と老人ほどの差がありました。
二人が対面したのは尾張と美濃の中間地点にある正徳寺<しょうとくじ>という社寺でした。
これにも逸話があり、創作の可能性もあるのですが、記しておきます。
信長はいつものようにうつけと呼ばれるような奇抜な恰好で、数百名の軍勢を率いて、正徳寺に向かっていました。
そんな信長の姿を街道脇の小屋から覗き見していたのが道三でした。
道三も一時は信長を噂に違わぬうつけ者だと思いましたが、信長の軍勢の装備を見て、仰天します。
当時は最新兵器で、所持している大名もわずかしかいなかった火縄銃・種子島を数百挺も装備し、通常よりも遥かに長い槍を持たせ、何よりも目を見張ったのが、軍勢の鎧などの装飾の美々しさでした。
わずかな軍勢でもこのような工夫を凝らした装備の前にあっては、一筋縄でいくものではありません。
信秀の経済政策が実を結び、高価で貴重品だった種子島を購入することもでき、各国の商人が自由に出入りをして、様々な武具が流通し、それによって文化度も向上したということになります。
その当時の商売というものは、その土地で仲間内だけで商売をすることが特権のようになっていたので、よそ者や流れ者が商売をするというのは、許可が必要だったり、嫌がらせを受けたりと容易なことではありませんでした。
それが信秀の領内では、比較的、自由度が高かったとされています。
道三にも経済感覚はありましたが、まさか信長という若者にその感覚があり、独特のセンス、美意識まで兼ね備えているとは、思わなかったのでしょう。
やがて、正徳寺にて対面という時になって、道三は街道脇で見た信長の姿から、略服でいいとして、座していたのですが、その場に現れた信長の姿は、対面の場にふさわしい正装に着替え、まるで貴公子のような美男ぶりだったのです。
これでは、略服などというおよそ対面には向かない服装の道三の面目は丸つぶれとなってしまいます。
ですが、信長は道三の領国経営の手腕を褒めちぎり、まるで師父を仰ぐような挨拶をするのです。道三もこれには苦笑せざるを得なかったようです。
しかし、道三の肝を冷やしたのは、信長の次の言葉でした。
「正徳寺に向かう途上、街道脇の小屋に自分を覗き見する無礼な者がいた。道三殿によく似ておられるように見えたが、そのような者が、我が義父・道三殿であるはずがない」と…。
この話に真実性というものがあるかについては、定かではありませんが、信長が只者ではないことは分かるように思えます。
さらにこの話の締めくくりとして、対面を終えた道三が自身の家来に「いずれ、わしの倅たちは信長の門前に馬をつなぐようになる」と言い残したといわれています。つまり、自分の子供たちは信長の家来になってしまうと予言したのです。
このように信長には周囲の人々から賛否両論のような評価を受けていたのです。
濃姫を妻に迎えた信長ですが、1551年に敬愛すべき父・信秀との別れがあり、好調だった織田家に暗雲が立ち込めます。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。