すっかり、肌寒くなり、コートを押入れの中、あるいはクリーニング店から取り出さなければならなくなってしまいました。
明日は祝日・文化の日でございますので、”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。
関ヶ原ということではありますが、少し脇道に逸らして、家康が何故に豊臣家において、五大老筆頭という実質的なNo.2にまで、のし上がれたかということについて、記述していきたいと思います。
現在でいうところの名古屋から京都、その周辺を押えた信長にとって一番の危険人物がいました。
赤備えの騎馬軍団を率い、天下最強の呼び声高く、孫子の兵法を参考にした戦術と風林火山の軍旗で知られる甲斐国(現在の山梨県)・信濃国(現在の長野県)の両国を支配する武田 信玄。
関東管領職で越後国(現在の新潟県)に領地を持ち、“軍神”として名高く、自身も闘いの神・毘沙門天の化身であるとした上杉 謙信の二人でした。
信長はこの両名にはかねてより、巧みな外交手段で懐柔していたようです。
例えば、信玄には様々な貴重品を贈り、「自分には敵対する意思がない」というようなことを書き送っていますし、上洛の動きを見せていた謙信に対しては、「自分が貴方のために、周辺の敵を撃退しておく」というような、ほとんど臣従に近い外交手段で二人を油断させていたのでした。
しかし、かねてより天下を狙う動きを見せていた信玄が義昭の要請を受け、三万の軍勢を率いて、立ち上がったのでした。
当然、信玄は敵の少ない東海道からの遠征を選択し、三河・遠江の両国を収めていた信長の同盟者である家康と対峙するのです。
これが世にいう「三方ヶ原の戦い」で、家康の誠実さ、律儀さを天下に広めた合戦だったのです。
通常、信玄のような強敵を前にすると、臣従するか、手出しをしないなどの弱腰な態度になってしまうのですが、家康は同盟者である信長との盟約を守るために立ち上がったのです。
信玄は、家康を彼の居城・浜松城から、巧みにおびき出し、野外戦に持ち込んで勝利を収めます。
命からがら戦場から脱出した家康は、同盟者である信長から絶大な信頼を得たことでしょう。信玄は、家康を撃破した後に、病を得て、亡くなってしまうのです。
家康は、その後も信長に協力し続け、律儀に同盟者の立場を守り続けたのです。信長亡き後の天下を獲った秀吉には、「小牧長久手の戦い」で一度は撃退していますが、勢いというのは秀吉にありました。
しかし、家康は生半可なことでは、決して屈せずに自分の価値を充分に天下に知らしめてから、秀吉に臣従しています。
家康の家来である三河の武士達は、質朴としていて、勇敢でもあったため、とても戦いに強かったそうです。
さらに、信長が信玄亡き後の武田家を滅亡させたのですが、その信長が亡き後に武田家の遺臣達を大量に召し抱えています。
当時、天下で最強とされていたのが、薩摩国(現在の鹿児島県)の島津氏の軍団・甲斐国(現在の山梨県)の武田氏の軍団・三河国(現在の愛知県東部)の徳川氏の軍団とされていたようです。
家康は、最強と言われる家来達をほぼ、その手中に収めていたのです。
その当時の印象としては、戦上手と名高い家康が、一度は合戦に勝利した秀吉に進んで、臣従したということで、秀吉子飼いの武将達(福島 正則や加藤 清正などの武断派)からは、感謝の念を抱かれたようで、その後の彼の人望の厚さにも繋がり、関ヶ原の合戦で生かされてくるのです。
秀吉からは警戒はされていたようですが、かといって自分を一度は破った人物に邪険にすることは、当然できるものではなく、彼を手なずけてしまいたいと思ったがために、関東二百五十万石という広大な土地、正二位・内大臣という官位、豊臣家・五大老筆頭職という地位を与えなければならなかったのでしょう。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。