”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。
今回は少し、話を脇道に逸らすようですが、先述したように“律儀”ということが、この弱肉強食の時代にどれだけの価値があったかについては、豊臣家を支える五大老の人事にも、濃厚に表れているといっても過言ではありません。
まずは、五大老筆頭の徳川 家康ですが、彼も関ヶ原以前は、その後に豊臣家を滅亡させるべく大坂冬の陣・夏の陣に見せる老獪な印象とはまるで違っています。
家康は元々、松平 元康といって、三河国(現在の愛知県東部)の大名でしたが、それは名ばかりで、駿河(現在の静岡県中部)・遠江(現在の静岡県西部)の両国を収める当時の海道一の弓取り・今川 義元に臣従していました。
関ヶ原の四十年前である永禄三年(1560年)、隣国・尾張の一大名に過ぎなかった織田 信長に桶狭間にて義元が討たれた際に、今川家から離れ、三河国に独立できたのです。
それからは信長と“清州同盟”なる協定を結び、以後、尾張の隣国・美濃国(現在の岐阜県)を狙う信長にとって背後にあたる三河より東の抑えになったのです。
その後の信長は、滅亡寸前だった前時代の将軍家である足利 義昭を足利幕府十五代将軍に据えるという名目で、天下取りのゴール地点である京都を手に入れます。
しかし、信長の傀儡に過ぎない将軍・義昭は自身の立場を良しとせず、将軍の名の下に、各地の有力大名に信長を倒して、自身を助けるように“御教書”と呼ばれる将軍の命令文書を送るのです。
名ばかりの将軍とはいえ、当時は将軍から手紙を貰うだけで、大変に名誉のあることでしたから、それに呼応した大名たちが、信長を倒すべく行動を開始します。
それが世にいう「信長包囲網」でした。信長も周辺の強豪大名たちの動きには義昭を仰いで、京都に入洛する前後から注意を払っていたようです。
その中でも、特に”要注意人物”が二人いた訳ですが、この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。