日照時間も日に日に短くなり、そろそろ木枯らしが吹いてくるようでごさいます。
読書の秋ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。
関ヶ原に激闘を繰り広げる東軍、西軍の誰もが、その”人物”の去就に目が離せませんでした。
彼の名を小早川 秀秋といいます。
彼の官位は権中納言だけでなく、左衛門督にも任官していたため、唐名で左衛門督を指す金吾というあだ名で呼ばれ、もっぱら彼は「金吾」、「金吾中納言」と呼ばれていました。
元々は、木下 秀俊という名で、秀吉の正室・寧々の甥にあたり、それが縁となって、世継ぎのいなかった豊臣家では、秀吉の養子・豊臣 秀次に次いで、秀秋は御曹司に近い立場にあったのです。
しかし、世継ぎの秀頼が生まれ、養子であり、秀吉から関白職まで譲られた秀次でさえ、謀反の疑いありとして、失脚に追いやられたのですから、秀秋が出世コースから外れてしまったことは言うまでもありません。
秀吉の晩年に見せる狂気というものは、それまでの彼の煌びやかな物語に陰鬱な影を落としていきます。
まずは、信長の姪にあたり、旧主筋である茶々を側室にしたり、良き相談役でもあった天下の茶人・千 利休、甥で養子にまでした秀次を失脚に追いやり、秀頼の生誕と前後して、海外出兵に踏み切ったり、嘘か誠かは別として、天下の大泥棒・石川 五右衛門を釜茹でにしたりと、それまでの人たらしと言われて、敵味方、すべての人々から愛されてきた秀吉とは、まるで別人のような印象さえ与える姿でした。
その秀吉にとって、老いてから授かった秀頼とは、まさに宝以外の何物でもなく、その秀頼の天下を阻むものは、例え、親族でも容赦はしないという凄まじい迫力に満ち溢れています。
それが、秀次事件を招き、豊臣 秀俊のまま、生涯を送るはずだった青年を、小早川 秀秋という名に変えさせたのでした。
秀吉は、茶々との間に、最初に授かった鶴松という世継ぎを生後、すぐに喪ってしまいます。
このやり場のない嘆き、悲しみ、そして近付く人生の黄昏に無情を感じた秀吉は、甥の秀次に関白職を譲り、自身は太閤(引退した関白の呼称)として、海外出兵に野望を燃やしていきます。
その野望は、中国、インドをも征服するという途方もないものでした。そんな中に、授かったのが、秀頼でした。
できれば、秀頼が成人したら、跡を継がせたい…それとなく天下人に仕立てた甥に頼んだ秀吉は、秀次から難色を示されたことが、秀次事件の発端という説もあります。
秀次失脚後、さらに用心せねばならない相手に、秀秋がいたのです。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。