読書の秋ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめしたいと思い、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも、電子書籍に親しみを感じて頂けましたら、幸いでございます。
秀吉には、たくさんの側室がいましたが、最大の力を持っていたのが、お世継ぎ・秀頼の生母である淀殿こと茶々でした。
茶々は近江国(現在の滋賀県)の大名・浅井 長政と織田 信長の妹であるお市の方との間に産まれた娘で、自然と茶々の下には三成らのような近江国出身の吏僚派の武将が集まるようになり、茶々と幼君・秀頼を担いで、半永久的に続くであろう豊臣家での権力を手中に収めようと動き出します。
そこへ、三成憎しとする武断派が担いだのが、秀吉の正室・北政所こと寧々でした。
寧々は秀吉や武断派の武将たち同様、尾張国(現在の愛知県)の出身で、秀吉の子飼いの武将であった正則や清正などは寧々を母のように慕っていました。
その寧々が秀吉の死後に頼ったのが、徳川 家康でした。
つまり、一見、関ヶ原は家康対三成に見えて、その実、寧々対茶々という正室と生母との権力争いの観を呈していたのです。
秀吉の死後、後を追うようにして、五大老の一人で、武断派と吏僚派の調停役となっていた前田 利家も亡くなり、いよいよ事態は悪化していきます。
家康は秀吉の遺言の一つである「勝手に大名同士の婚姻を結ぶことを禁ず」を破り、次々に反三成派と婚姻関係を結んでいきます。
さらに、武断派の武将たちが暴発し、三成襲撃を企てるなど、事態は両雄の決戦でしか、収まりがつかなくなってしまいます。
実は家康はこの時期からすでにどういう手段を用いれば、天下を手にできるかという目標に向かって突き進んでいたものと見えます。
今の家康の立場からすると、誰もが頭の上がらない武断派たちの頼れる実力者であるに過ぎず、豊臣家の筆頭家老でしかないのです。
それを巧みに天下の主にするには、三成を立ち上がらせるしかなかったのです。
一方、三成もまた家康の野望を阻止すべく、来る決戦に向けて、着々と準備を始めていきます。
まず、三成の身上は近江・佐和山十九万石に過ぎず、一人で二百五十万石の身代を固める家康に対抗するには、それ相応の人物を担がなければなりませんでした。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。