つい最近、国営放送で放映された時代劇で、戦国史上最大の決戦と称される「ある戦い」が、超高速などと言われて、話題になりました。
それは視聴者が抱いていた期待で、名場面になるかと思いきや、諜者からの結果報告だけという迷場面と受け取ってしまったことが、話題に上ってしまったのでしょう。
今回はレンタルのiPadにて、電子書籍をおすすめしたいと思いましたので、以下のような、お話をさせて頂きます。
少しでも書籍に親しみを持って頂けましたら、幸いです。
かの有名な関ヶ原の合戦は東西十五万という野外決戦においては破格の人数が、縦横無尽に戦場を駆け回った戦いですから、そう簡単に描写しきれるものではございません。
関ヶ原の古戦場は現在の岐阜県不破郡関ヶ原町にあり、もし、描写したいのであれば、丹念にそれこそ、一年をかけて描かなければなりません。
逆に、描ききれないからこそ、「超高速」という手法も必要だったかとも思われます。
それだけ、人間関係が複雑で、様々な思惑が交錯していたのが、関ヶ原の合戦でございます。
そもそも、関ヶ原合戦の二年前に没した、時の権力者である太閤・豊臣 秀吉の政治体制が堅牢でなかったことが、すべての始まりでございます。
秀吉は、農民の出身でしたから、先祖代々から仕える家来がいなかったのです。
戦国時代というのは、現在の倫理観では推し量れないほどの功利主義であったので、裏切り、下克上などは日常茶飯事で、まさに弱肉強食の時代でした。
そんな時代で、自分のために命を預けてくれるような家来がいなければ、また家来にそう思わせるような武将でなければ、成り立たなかったのです。
秀吉は結局、親類縁者、あるいは同僚、支配先の土地の武士たちを積極的に登用することで、手作りで家臣団を作り上げていかなければならなかったのです。
その代表的な人物に、弟の豊臣 秀長、親戚の福島 正則、加藤 清正などが挙げられるでしょう。
さらに秀吉を悩ませたものは世継ぎでした。世継ぎの豊臣 秀頼は秀吉の晩年に授かった子供で幼すぎたのです。
そして、秀吉が採用した外交政策も問題でした。自分に刃向った敵に対して、比較的、寛容であったことです。
その例として、挙げられるのが、豊臣家の五人の実力者・五大老の筆頭で、後に”豊臣家の最大の敵となる人物”であり、秀吉が直轄していた土地が”その人物”の所領よりも少ないのです。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。