歴史に二度、名を残す男たち

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様々な書籍に目を通していますと、なるほど…といろいろなことを知り、驚き、目から鱗が落ちるような思いを抱くことが多々、あるようでございます。

「元の木阿弥」と「洞ヶ峠を決め込む」という諺をご存知でしょうか?

元の木阿弥は一旦、良くなったものが、再び元の状態に戻ることを言います。洞が峠を決め込むは日和見することを言います。

どちらの由来にもある一人の戦国大名が関わっているのでございます。

筒井 順慶…天文18年3月3日(1549年3月31日)~天正12年8月11日(1584年9月15日)という大和国(現在の奈良県)の戦国大名でございます。

順慶がまだ幼い頃、父の筒井 順昭が亡くなってしまい、その遺言からある一定の時期まで(1年~3年、または順慶が成人するまで、など諸説あり)、順昭の影武者を仕立てることになったのでございます。

それが奈良の僧で木阿弥といった人物だったのでございます。

木阿弥は筒井家が安定するまでの間、順昭の影武者として、贅沢な暮らしを送るのですが、順慶が成長すると、奈良に帰されて、また元の僧に戻ってしまった…というのが、「元の木阿弥」の由来だそうでございます。

そして、順慶は当時、天下布武の名の下に大軍団を率いて、天下統一を目指していた織田 信長の傘下に入るのでございます。

さらに時代は変わり、戦国史上最大のクーデターとされる「本能寺の変」が起き、明智 光秀に信長は倒されてしまいます。

天下は光秀のものになるかと思われましたが、山陽地方から反転してきた羽柴 秀吉、後の太閤・豊臣 秀吉と京都近郊の山崎において、対決することになります。

その際に、順慶は織田家家臣だった光秀に自身も傘下に入る際の取次を頼んでいたことから、光秀に与する者と見られていました。

光秀が順慶を味方に付けるために、半ば威嚇行為を含めて、布陣したのが、洞ヶ峠でした。

順慶としても、家を保全しなければならず、動静を見守っていましたが、結局は秀吉に従ったのでした。

これを世間では、順慶が洞ヶ峠で日和見をしていた、と伝わってしまったのだそうでございます。

書籍を読んでいると、このように様々な事柄に出会うことができますので、皆様も是非、旅のお供や休日などに、レンタルのiPadで電子書籍を読んでみてはいかがでしょうか?

ご検討のほど、宜しくお願い致します。

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