今回も前回に引き続き、レンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。
端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。
拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。
戦国時代には様々な人間ドラマがあり、日本の各地でも様々な動きがありましたが、その時代を象徴する三人の人物にスポットを当てて、この三人から戦国時代を眺めていきたいと思います。まずは一人目です。
○織田信長<おだのぶなが>(1534年~1582年)
この人物は「革新」という言葉がぴったりとあてはまるような人物です。
日本人が1000年以上かけて作り上げた、見様によっては強者にとって都合のいい常識というものを、すべて否定したという人物でした。
王道と覇道を進む者があるとすれば、間違いなく信長は覇道を進む人物ではないでしょうか。
彼は1534年に尾張国(現在の愛知県)の戦国大名・織田信秀<おだのぶひで>(1508年、または1510年~1551年)と土田御前<とだごぜん>(?~1594年)の間に生まれました。
幼名を吉法師<きっぽうし>といい、幼い頃から奇矯な振る舞いが多かったため、「うつけもの」と呼ばれていたそうです。
そんな信長が、なぜに後世まで語り継がれる人物にまでなれたかといえば、最大の理由は戦国時代を終わらせ、天下を統一しかけたことにあります。
では、なぜに天下を望めるほどの人物になれたかについては、父の信秀の物語にヒントが隠されているようです。
父の信秀は、尾張国の守護(幕府からその国を任されている地方長官のようなもの)である斯波氏の家来のそのまた家来という立場にありました。
信秀は一種の商業都市と化していた「津島」と「熱田」を支配していたため、経済的に潤っていました。
津島と熱田という地には、「津島神社」と「熱田神宮」という人々が大勢、参拝に訪れる社寺があったため、その人々を目当てに集まった商人たちが儲ける金銭に信秀は目をつけたのです。
当時は、金銭と米が経済を二分していたようで、税を米で収めるといった習慣もありました。
ですから、価値観としては米も金銭と同じものといったような感覚だったのでしょう。信秀は盛んに商業の発展を推奨し、様々な国の商品が尾張国に流れるようになりました。
信秀のこの商業推奨は、後に信長の手によって、「楽市楽座」という制度の基礎となり、米だけに頼らない自由度の高い考え方の手本となっていたわけです。
もちろん、米=食糧が無くては戦争ができないため、干拓開発にも尽力し、米所としても尾張は名を馳せるようになりました。現在でもこの名残は残っています。
こうした結果、家来の家来である信秀は尾張国を一代でほぼその手中に収めたのです。
信長はこうした経済感覚を幼い頃から身につけ、肌で感じ取り、独自の価値観を作り上げていったようです。
しかし、うつけの異名を持つことは、父である信秀にとって、心配の種になっていたのか、吉法師から元服(成人)し、信長となった息子を結婚させることにします。
信長が14歳の頃でした。
この婚姻も多分に政治的なものを含んでいるとはいえ、信長にとっては運命的な出逢いへと繋がっていくことになります。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。