レンタルiPadで戦国史を読もう PART2

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今回はレンタルのiPadにて読む電子書籍をおすすめ致したく、戦国史について記述していきたいと思います。

端末をレンタルでご利用頂きますと新規購入よりも比較的、安価に済みますので、ぜひ、ご検討頂ければと思います。

拙文ではございますが、少しでも書籍に親しみを持って頂ければ幸いでございます。

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熾烈な下克上の時代において、子が父の座を奪い取るということもあったようです。

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名・武田信玄<たけだしんげん>(1521年~1573年)です。

信玄は後の世まで「天下最強の騎馬軍団」を率い、風林火山の旗印を立て、上杉謙信<うえすぎけんしん>(1530年~1578年)と五回にも及ぶ「川中島合戦」<かわなかじまがっせん>を繰り広げ、若かりし日の徳川家康<とくがわいえやす>(1543年~1616年)を「三方ヶ原合戦」<みかたがはらがっせん>で散々に痛めつけたことでも知られている人物です。

信玄は、若い頃は晴信<はるのぶ>という名で(”信玄”というのは法名、仏門に帰依した際に与えられる名前)、父は信虎<のぶとら>(1493年~1574年)という人物でした。

しかし、後継ぎであるはずの信玄は父から疎まれ、危うく廃嫡(相続権を奪われること)になりかけていたようで、この時、信虎よりも信玄に大器があると見込んだ家臣たちは、密かに信玄と共に信虎を追放する計画を立てていたのです。

実はこれにも諸説があり、信虎を追放した自分たちの正当性を示すべく、信玄たちが作り上げた物語ではないか、というものもあります。

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いずれにせよ、信虎は甲斐国の隣国である駿河国(現在の静岡県中部)の大名である今川義元<いまがわよしもと>(1519年~1560年)の下に嫁いだ娘に会いに行くため、国境を出て以来、二度と甲斐国には戻れなくなってしまったのです。

このようにして、実父から当主の座を奪い取って、自身が大名になるという例もあります。後に宿敵関係となる上杉謙信(この当時の名は長尾景虎<ながおかげとら>)は信玄をして「親不孝者」と痛烈に批判しています。

これは1541年頃の出来事ですので、信玄が20歳ということになります。

弱冠20歳の青年が何万人という人々の生活を保障するだけでなく、自分の父を追放せねばならないというように身内同士でも骨肉の争いが起きていた世の中でした。

おそらく、日本国の至る所で安寧を求める声というものが地鳴りのように湧き上がり、やがては”天下統一”ということにまで進んでいったようです。

ここで、”天下統一”というおよそ、平和的な響きとは対極にありながら、その実現に大きく尽力した兵器が登場します。

“火縄銃”の伝来です。

1543年に種子島に漂着したポルトガル船に乗っていたポルトガル商人から伝わったとされる火縄銃ですが、最初はわずか二挺だったそうです。

その内、一挺を鍛冶師の八板金兵衛<やいたきんべえ>(1502年~1570年)の手によって、複製され、やがては、その噂を聞きつけた和泉国(現在の大阪府南部)の堺の商人や紀伊国(現在の和歌山県)の根来の僧たちが買い求めたものが、やがては何千、何万挺と増産されたといわれています。

この金兵衛の手によって、作成された”国産”の火縄銃を伝来した島の名を取って“種子島”といいます。

このためか、当時の堺や根来は鉄砲のメッカとなりました。この兵器の出現が、種子島を多数所持する大名たちが繰り広げた様々な合戦を優勢に導き、”天下統一”という途方もない偉業を達成させたといえるかもしれません。

では戦国時代に至った経緯と時代が生んだ状況を述べましたが、次回より戦国時代を代表する三人の武将に視点を向けて、戦国史を記述していきたいと思います。

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