雨が立て続けに降りしきり、肌寒い日が続いています。皆様におかれましても、お風邪などにかからないようにと願う次第でございます。
”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットやレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。
五大老について記述してきましたが、いよいよ最後の人物となります。
豊臣家の重鎮である五大老ですが、徳川 家康・前田 利家・毛利 輝元・上杉 景勝は戦歴、領地、人望からいっても文句なしの人選であったかと思われます。
しかし、五大老には宇喜多 秀家という青年の名が連なっているのです。
しかも、二十二歳という若さで従三位・中納言という途方もない官位を与えられているのです。
秀家は備前国(現在の岡山県東部)に本領を持っていたため、“備前中納言”と呼ばれ、五十七万石を与えられていました。
このように、秀家は天下人・秀吉から期待されていたのでしょう。そもそも、秀家の“秀”の字は秀吉の“秀”から貰ったものです。
秀家の父は宇喜多 直家という戦国大名で、謀略の繰り返しで勢力を拡大させ、一代で備前国・美作国(現在の岡山県北部)を版図に収めた人物でした。
このため、直家は周辺諸国からは油断のならない人物として、警戒されていました。そんな直家を挟むようにして、織田家の司令官だった秀吉と毛利家が対峙していたのでした。
秀吉は、“人たらし”といわれる人心収穫術で直家を味方に付けたのですが、それでも油断のできない相手でした。
しかし、直家も病には勝てなかったようで、秀吉にまだ幼い秀家の後見を頼んでいたといわれています。
ここで、秀吉は宇喜多家を味方につけておくため、秀家には自分の一字を与えて、後見役となり、彼を“猶子”としたのでした。
猶子とは「猶、子の如し」(なほ、このごとし)という意味で、家督相続権は持たない義理の子、養子の次のような存在でした。
秀吉と宇喜多家との関係については、様々な諸説があるのですが、これほどまでに秀家は秀吉から愛されていたことは間違いないことのようです。
それだけ、秀家には秀吉に才覚があると思わせる何かがあったのかもしれません。
秀家はその後、関ヶ原合戦の際にも進んで西軍に参加し、一万五千の軍勢を率いて、激闘を繰り広げていますが、五大老の中では一番、秀吉の意向に従ったのは、この秀家であったといえるかもしれません。
このように、弱肉強食の時代にあって、律儀ということがどれほど価値のあったことかを記述してきましたが、次回からは、お話を関ヶ原の合戦に戻したいと思います。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。