レンタルiPadで関ヶ原 PART11

ブログ

朝方はすっかり冬のような寒さで、車の窓には霜が降りるようになりました。この季節は、特に風邪などの感染症には用心をしなければならないようでございます。

”灯火親しむべし”、”読書の秋”ということで、購入するよりも安価なレンタルタブレットレンタルiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。

少しでも書籍に親しみを感じて頂けたら幸いでございます。

以前より、関ヶ原の背景について、記述してきましたが、豊臣家の柱石を担った五大老について、引き続き、記述していきたいと思います。

五大老では、三番手にあたる毛利 輝元…というよりは、”毛利家”自体が頼られれば、決して粗略にはしないという律儀な家風として、戦国期ではよく知られていたようです。

以前の十五代将軍・足利 義昭による“信長包囲網”の際には、東で立ち上がった武田 信玄に対し、西で立ち上がったのが、毛利輝元でした。

祖父である毛利 元就の遺言により、天下を狙わないという家風が毛利家では根付いていましたが、名ばかりとはいえ、全国の武士の棟梁である征夷大将軍から、頼まれれば断るわけにもいかず、包囲網に参加したようです。

しかし、裏を返してみれば、毛利両川といわれた二人の叔父である吉川 元春・小早川 隆景の知恵が働いているようです。因みに毛利両川とは、吉川・小早川の姓に川の字が入っていることからきています。

信長の戦略方針としては、東は徳川 家康に任せ、自身は西国の大名すべてを打ち倒すつもりでいたようで、毛利家の広大な領地をそのまま保全する気はなかったようです。

その証拠となるかは言い切れませんが、奇抜なデザイン、吹き抜け構造という画期的なアイデアで築き上げた壮麗な安土城の次の居城として、軍事、立地、物流、すべての環境に適した大坂(現在の表記は大阪)の地に居城建築計画を立てていたそうで、本格的に西国に目を向けていたことは確かなようです。

その後、信長の遺志を継いだのか、秀吉が大坂の地に三国一の巨城・大坂城を築きます。

毛利両川であり、知略にも恵まれた元春と隆景が、信長の企てを見過ごすはずがなく、将軍に従うという大義の下に、自身の領国を守るために立ち上がった観があるのです。

その頃、毛利家を攻めるように命じられていたのが、羽柴 秀吉といった頃の豊臣 秀吉でした。

秀吉は、姫路周辺を収めていた小寺 官兵衛といった頃の黒田 官兵衛を味方に付け、中国地方の攻略にあたるのですが、中国地方に割拠する豪族達は、ほとんどが毛利家の家風である律儀さを頼って、秀吉に味方をしようとする者が少なかったのです。

言ってしまえば、官兵衛のような中国地方周辺の情勢に明るく、無私の知恵者がいなければ、人たらしと言われた秀吉でさえ、播州(播磨国、現在の兵庫県)一円の平定には、さらなる苦労を強いられていたかもしれないのです。

秀吉は散々に手古摺らされて、あと一歩というところまで、毛利家を追い詰めた時に起きたのが、主君・信長が斃れた本能寺の変でした。

一躍、天下に躍り出た秀吉は信長の遺産を引き継ぎ、盤石を固めた後に、毛利家を既成事実で以って、臣従させ、毛利家の領土を安堵し、自身を苦しめ続けたその家風である律儀さを買って、五大老の席に列したのでした。

・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。

タイトルとURLをコピーしました