いよいよ秋が深まり、今年もあとわずかになりました。
読書の秋ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめ致したく、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
関東の徳川 家康を狙う上杉 景勝にとって、警戒をしなければならない相手がいました。
”独眼竜”の異名でその名を天下に轟かせた仙台の覇者・伊達 政宗です。
上杉軍が動こうにも政宗の軍団が睨みを利かせていたのでは、動きたくても動けないのです。ここに三成の挟撃作戦は失敗に終わりました。
ですが、三成には五大老である毛利、宇喜多の他に、薩摩の島津、四国の長曾我部などの西国の強豪たちや、”友情”という感覚の乏しかった戦国時代に三成が”友”と呼べた若狭の大谷 吉継が味方に付いています。
一つの思惑が失敗に終わったからといって、容易にこれらの諸将に敗因の要素を見つけられません。
しかし、家康はそれ以上に周到かつ老獪な手段を二重にも三重にも用意していたのです。
家康は武断派諸将らを西上させ、自身はひたすら江戸から各地の諸将たちに手紙を送っています。
こうして、日本は東軍と西軍に分かれていきます。家康が味方に誘ったのは、どっちつかずの武将もいれば、三成らの西軍諸将達の中にもいたのです。
例えば、西軍中、最大の兵力を持つ毛利 輝元の家来で、吉川 広家などは、毛利家の外交僧である安国寺 恵瓊主導の下による西軍参加に疑問を抱き、密かに家康に内通していました。
安国寺 恵瓊といえば、かつて天下人への階段を登り始めた織田 信長を次期天下人と予想し、ゆくゆくはその座から転げ落ちるとまで言い当て、さらに驚愕すべきことに、まだ信長の家来で、木下 藤吉郎と名乗っていた頃の、無名といっても過言ではなかった秀吉をして、只者ではないと評価していたほどの眼力を持った高僧でした。
ですが、恵瓊はその後、彼自身が予想していた本能寺の変が起きた時、敵として対峙した秀吉と交渉の末、結果的に秀吉を天下人にしてしまったと言えるようなことをしてしまいます。
”毛利両川”といって、毛利家では、”三本の矢”の逸話で有名な毛利 元就の息子である次男・吉川 元春と三男の小早川 隆景がいて、その二人が後継ぎである甥の輝元を補佐したため、付けられた呼び名です。
言ってしまえば、当主の輝元でさえ、叔父である二人の提言を無視できなかったのです。
発言力の強い二人の内、隆景は秀吉の天下を黙認し、元春は納得はしていなかったようで、その不信感は秀吉との交渉を取りまとめた恵瓊に向かいます。その元春の息子である広家にも、その不信感が遺伝していたようです。
さらに、三成と同じ五奉行の一人で、味方であるはずの増田 長盛でさえ、保身のためか、内通していたようです。
さらには、合戦前にあって、三成と、幕末まで最強の名をほしいままにした薩摩軍団を率いる島津 義弘が、戦術を巡って対立し、合戦においては一度も兵を出さなかったのです。
実際の関ヶ原合戦では、西軍は八万の兵士を集めながら、奮戦したのは、石田 三成、宇喜多 秀家、大谷 吉継ら、三万人弱で、出陣を促された西軍最大の兵力を持つ毛利家を率いる吉川 広家は、弁当を食べているから、動けないという言い訳をして、一度も動かなかったのです。
これを世に「吉川の空弁当」と言われています。
さらに、東軍、西軍どちらも悩みの種として、抱えていた問題の”当事者”が、盆地となっている戦場・関ヶ原を見下ろすようにして、そびえている松尾山に布陣していたのです。
この”人物”は、事ここに至って、どちらに味方するかを迷い、迷っているがために、一歩も動こうとしないという、これまた変わった”人物”でした。
結局は、この”人物”が東軍から言わせれば、関ヶ原の最大の功労者であり、西軍から言わせれば、最大の裏切り者となってしまい、後世にも、”彼”を描いた作品では、大抵が暗愚、愚鈍、優柔不断などのレッテルを貼られてしまっているのです。
・・・・この続きは、次回までのお楽しみということにさせて頂きます。