読書の秋ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめしたく、拙文ではございますが、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
三成が担ぎあげた人物は、家康、今は亡き利家以外の五大老たちでした。
中国地方の覇者・毛利 輝元、秀吉に目をかけられていた宇喜多 秀家、上杉 謙信の養子にあたる上杉 景勝らに協力を求めます。
まずは、この三人の中では、一番の領土を持つ輝元を盟主と仰ぎ、年若な秀家は自身と同様、参謀格にし、会津に領土を持つ景勝には、上方にいる自分たちと関東にいる家康を挟み撃ちにすべく協力を求めるといった具合でした。
ほぼ、勝算は出来上がっていました。
しかし、三成と同様に家康もまた勝算に近いものを仕上げていたのです。
それは、三成に兵を挙げさせ、武断派の諸将たちと共にそれを討ち、自然と彼らをその配下に収めることでした。
そして、三成は昵懇にしていた上杉家の家老・直江 兼続と計らい、家康に対して、弾劾文を送らせ、挑発します。
それが世にいう「直江状」で、家康はこの手紙に激昂すると、会津に謀反の兆しありとして、武断派の諸将たちを引き連れて、下野の小山という場所まで、進出します。
そこへ、三成が上方にて挙兵という報せが入ります。
挟み撃ちの格好になった諸将でしたが、計算していた家康は取って返して三成を討つという宣言をします。
まず、最初に賛成したのが武断派の領袖ともいうべき福島 正則で、さらに関東から上方までの交通路にあたる東海道に領地を持つ山内 一豊は自身の領地を「すべて徳川殿に差し上げる」とまで言い出したために、東海道に領地を持つ諸将は、我も我もと次々に味方に付いたのです。
因みに正則は戦後、安芸・広島城を与えられ、五十万石に近い領地を得、一豊は土佐国(現在の高知県)二十四万石を与えられました。
この一夜にして、豊臣家の武断派諸将を徳川家の傘下に収めた魔術のような会合を「小山会議」といいます。
満場一致かと思われた会議でしたが、静観し、自分たちは三成方に付くと決めていた武将たちもいたようで、それが信州(現在の長野県)上田城の主である真田 昌幸と真田 信繁父子だったのです。
彼らは後に家康を大いに苦しめるに至ります。
そして、家康を盟主に仰いだ武断派の諸将らは東海道を進んでいきます。
一方、会津の上杉家は家康を挟み撃ちにすべく、行動を開始しようとしていたのですが、ここにも用意周到な家康の計略が働いていたのです。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。