すっかり、秋が深まり、肌寒くなってまいりました。
読書の秋ということで、レンタルで、購入するよりも安価なタブレットやiPadで読む、電子書籍をおすすめしたいと思い、拙文ではございますが、前回に引き続き、関ヶ原の戦いについて、記述していきたいと思います。
少しでも、電子書籍に親しみを感じて頂けましたら、幸いでございます。
”豊臣家の最大の敵”となる人物とは、徳川 家康です。
秀吉は小牧長久手の戦いで、甲州(甲斐国、現在の山梨県)の武田家、薩州(薩摩国、現在の鹿児島県)の島津家と並んで、天下最強と言われた三州(三河国、現在の愛知県東部)の家来たちを率いていた家康に敗れたために、結局は懐柔するしかなかったのです。
また、天下を統一するためには、既存の勢力をことごとく殲滅するということは時間がかかりすぎてしまうということもあったのでしょう。
そんな家康を関八州・二百五十万石(現在の東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、茨城県、栃木県、群馬県)に封じたのですが、秀吉が直接、治めていたのは二百万石ほどで、あとは全国の金山から採掘される金、海外との貿易によって得られる外貨、そして経済物流の把握などで、巨万の富を蓄え、天下人としての勢威を誇っていたのです。
つまり、関東という広大な土地に監視付きで獰猛な猛虎を飼い慣らしていたという訳です。
このような寛容で太っ腹な領地授与の結果が、二度に渡る無謀な外征に至るのです。
秀吉としても、日本の土地を外様大名たちに分け与えすぎたがために、海外に土地を求めるというのは、無理からぬことだったのでしょう。
しかし、その理屈は飽くまでも日本国に限ったことで、日本ではない海外では決して通用しない理屈でした。
それが、さらに豊臣家を短命に追いやった事業になるのです。
二度に渡る海外遠征により、日本国内の物価は上昇し、民は疲弊し、かの地で戦線に赴く諸将たちにも厭戦気分が満ちていました。
そこで、持ち上がったのが、槍働きで出世した福島 正則や加藤 清正、黒田 長政、細川 忠興などの武断派と、豊臣家の事務や経理を担当して、出世した石田 三成らの吏僚派の対立でした。
三成は外征の目付役として、度々、戦線に出向いては、武断派の武将と対立し、国内の秀吉に逐一、報告したことから、清正などは秀吉の怒りを買うというような事態にまで、発展し、三成は武断派から憎悪の対象になってしまうのです。
また、この三成と清正の対立には裏があり、豊臣家の女性たちの思惑も絡んできていたのです。
・・・この続きは次回までのお楽しみということにさせて頂きます。